「自分のやりたいことに日々挑戦しつづけていけば、どこかにたどりつく」
本村杏珠 さん (琉球朝日放送 報道制作局 記者)
アナウンサー?映画監督 沖縄テレビ放送 報道局報道部
1977年那覇生まれ。那覇高校を卒業後、琉球大学法学部へ進学し、1999年OTV(沖縄テレビ放送)に入社。アナウンサーとして取材活動を続け、数々のドキュメンタリー番組を制作し、2011年『どこへ行く、島の救急ヘリ』で民間放送連盟賞テレビ報道部門優秀賞などを受賞。2018年には、『菜の花の沖縄日記』で第38回「地方の時代」映像祭グランプリ、民間放送連盟賞報道番組部門優秀賞を受賞。2019年、放送界で活躍し、優れた功績をあげた女性に贈られる『放送ウーマン賞』を受賞した。2020年4月には、初監督作品となる映画『ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記』を公開。現在、『OTV LiveNews it!』のキャスターを務めている。
高校3年生のときに1年間、アメリカのサウスカロライナに交換留学しました。私自身には、特に「海外に行きたい」という気持ちはなかったんですけれど、姉が英語が好きで、小さいときからずっと外に目が向いてる人だったので、高校生のときに留学をして。それで、「姉と私に差をつけたくないから」という母に、半ば強引に薦められて行ったというものすごく消極的な理由なんですけれど、実際に行ってみて本当に良かったなと思いました。
英語は全然上達しませんでしたが、世界の広さと、世界には本当に「知らない人にも優しくしてくれるいい人がいるんだ」と実感しましたし、ホームシックもまったくなくて、1年で帰りたいと思わないほど馴染みました。それは向こうで出会った「人」のおかげで、だから人間って、ごく少数でいいと思うんですけど、とにかく「人と繋がっている」という実感があれば、たぶん幸せなんだと思います。
あまりクヨクヨ悩まなくなりました。あのころの私は“劣等感の塊”みたいな感じで、思うようにできないことに対しての悔しさだったり、それをどう乗り越えればいいかがわからない自分への苛立ちみたいなものを感じていましたから。それが、「何か自分ひとりで解決できないことがあったら、人に助けを求めればいいんだな」と思えるようになりました。異国の地で1人で生活してみると、殻に閉じこもってしまったらそこから一歩も前に進めなくなりますから。「人に助けを求めること」を、留学体験で学んできたような気がします。
小学生のころから、何となくおぼろげに「報道記者になりたいな」と思っていました。とにかくテレビが大好きな“テレビっ子”だったので、いろいろな影響をテレビから受けましたけれど、決定的に「テレビに関わる仕事をしたい」と思ったのは、『筑紫哲也NEWS23』(1989年から放送されている報道番組)の影響がすごく大きいですね。
大学生のころはボーッと生きていたので、メディアに進みたいと思って大学で地域社会科学コースを選んだのに、実際に入ってみたら「本当に自分がやりたいことってこれなのかな?」と思ってフラフラしながら教職課程を取ってみたりとか、将来の選択肢をいろいろと残しながら過ごしていました。
それが、1995年。私たちが大学1年生のときに、沖縄で米兵による少女暴行事件が起きて、県民大会があって。そういう大きなうねりのなかで、自分がどういうアクションを起こしていいのか、一切わからなくて。
そのときに、筑紫哲也さんの『NEWS23』が、沖縄の問題を歴史も含めてものごくわかりやすく映像として表現されていたんです。八重山民謡歌手の大工哲弘さんが、沖縄の本土復帰当時に歌われていた「沖縄を返せ」という歌を、「沖縄(を)」ではなくて「沖縄(へ)返せ」と、歌詞を一文字変えて、番組で生で歌われた。歌に合わせて沖縄の歴史が映像で表現されているのを観たときに「こういうことを伝えてみたい」と思ったことが、決定的にテレビの仕事を目指すようになったきっかけです。
うちはローカル局なので、アナウンサーとして表に出ている時間って、実は全体の1割ぐらいしかありません。残りの9割は取材活動をしているので、ほとんど記者さんと変わらない仕事なんです。
たとえば、お昼のニュースは時間が5分ほどしかありませんが、そこで3?4本の話題を伝えなければなりません。基本的に記者が書いた原稿をデスクがチェックして、それを読むアナウンサーは最終走者なので、そういう意味では責任は重大です。新人1年生だろうが何だろうが、みんなが作り上げてきたものを、最終的にカミカミで読んだら伝わらないですから。
本当に必要とされているところにカメラを持って、マイクを向けることによって、小さな声を届けることができる。そこには普遍的なメッセージが込められているので、それを伝えられるということは、この仕事のものすごい醍醐味です。
本当に伝えるために、伝わる内容にするために、まず「言葉を磨く」ということ。そして、テレビは映像メディアなので、「映像でどう表現していくか」というこの2点ですね。今もまだまだ勉強中ですけれど、やはり本音で語る言葉を持つこと。本音で自分の想いを伝えるためには語彙力がないと、どこかで曲解してしまったり、相手に本意が伝わらなかったりするので、いかにそこを磨いていくか。そのためには本を読む、新聞を読む、それから話の上手な人の話を聞く、盗むことです。
仕事をしている上では皆さんそうでしょうけれど、壁しかないです。今年(2020年)は映画を作りましたけれど、それも大きな壁かもしれません。
2018年に、全国放送の枠で『菜の花の沖縄日記』というドキュメンタリー番組を作りました。県内では、もちろん人の目に触れる時間に放送されましたが、県外の放送だと平日の深夜3時とか、「誰が観るの?」という時間にしか放送してもらえなかった。「県外の人にこそ、沖縄の声を伝えたい」と作った番組が観てほしいところに届けられないという、忸怩たる思いがあって。これは私だけではなくて、地方メディアのテレビマンたちがみんな感じていることでもあります。
その後、系列のテレビ局が映画化の道を開いてくださったので、『ちむぐりさ 菜の花沖縄日記』という映画として全国で公開することができました。映画はやはり届き方が違いますし、ありがたいことに本当に良い反響をいただいているんですけれど、そのほとんどが、もともと沖縄に関心を持ってくださっている中高年の方たちなんです。
県外の若い人たちにも、沖縄が抱えている問題に少しでも関心持ってほしいなと思って作った映画なので、本当は10代、20代の人たちに見てもらいたいんですけど、そこがなかなか難しい。どうやったら若い世代に響くのかということが、今、ものすごい壁かもしれないです。
叶うなら、17歳の自分を「ぎゅ~」って抱きしめてあげたいと思います。
うちはシングルマザーだったこともあって経済的に余裕がなくて、大学も就職も絶対に浪人はできないというプレッシャーがあったので、ものすごく焦っていた気がします。それがいい意味でハングリーな部分に繋がったとは思いますけれど、今、17歳の自分に会えたら、「そんなに焦らなくても大丈夫よ?。なんくるないさ」と言ってあげたい。
あのころを思い出すと、自分の将来や夢のことを、友達と本気で語り合っていたんですよね。ときには夜通しで、対話しながら、やりたいことが見えてきた気がします。そのころの友達とは今でも呑みながら語り合います。やりたいことや相談事を話していると、自分では気づかなかったことがわかったり、とてもありがたい存在です。
だから、17歳の皆さんには「友達といっぱいしゃべってね」と伝えたい。もちろん、本を読んでもいろいろな気づきはあります。ただ、誰でも大人から「本を読め」と言われているでしょう。そのころの私自身、書店に行っても量の多さにただ呆然と立ち尽くすだけでした。
身近な友達や家族に、「こんなことやってみたい」とか、「何がやりたいのかわからない」みたいに自分の本音を語れる人がいたら、少し光が見えてくると思います。
今でこそ、自分の劣等感みたいものも全部さらけ出せますけれど、それはきっと年齢を重ねたからですね。おばちゃんになったら、楽になりました。だから、おばあちゃんになるのがすごく楽しみです。
沖縄は、優しさに溢れてる島だと思います。今年制作した映画のタイトルに「ちむぐりさ」という言葉を使いましたが、沖縄の方言には「悲しい」という言葉がなくて、「ちむぐりさ」は「あなたが悲しいと、私も悲しい」という言葉として使われます。人の痛みを、自分の痛みのように感じてくれる人がいる。自分の周りの友達や家族のことを考えても、人と人との心の繋がりみたいなことが実感できる、本当に良い島だと思っています。
ただ、やっぱりその一方で、国策とか大きな歴史の流れのなかで翻弄されて、考えの違いから人が分断されたり、「なんで沖縄だけ」と感じることもあります。
自分たちで決める力や、いろいろなものを奪われてきたのが沖縄の歴史だから、「自分たちが生きる社会をどうしていきたいか」ということを若い世代が自分の中に持ってるのと、持っていないのとでは大きな違いがあると思います。
100年後の沖縄は、沖縄が沖縄のことを自分たちで決められる島に、自分たちできちんと将来を選択していける島になっていることを願ってやみません。
身近な友達や家族に
自分の本音をちゃんと語れたら、
光が見えてくる。