ピカリと輝く沖大生!(62)琉球史?泊村について研究(大学院現代沖縄研究科修了生 新田和馬さん)
ピカリと輝く沖大生!(62)
先日、2023年度修士論文最終発表会が開催され、「琉球王国における泊村の歴史的役割について—泊士の実態を中心に—」と題して、およそ250頁にわたる修士論文の内容について報告したのが修了生の新田和馬さんです。大学院修士課程を終了後は名桜大学大学院博士課程への進学と、沖縄県教育委員会職員(専門員(史料編集担当))への就職が決まっています。沖縄県の資料編集担当専門員は現役での合格は非常に難しいといわれているなか、新田さんは見事内定を勝ち取りました。そんな新田さんに研究のことなど、沖縄大学での6年間についてお話しを伺いました。
大学院現代沖縄研究科修了生 新田和馬さん
【琉球史に興味をもったきっかけはなんですか?】
影響が大きかったことは前田舟子先生のゼミに所属したことです。前田先生との出会いがここまで研究に打ち込むことができたと思っています。親戚から、先祖は泊里主であったことは聞いていたので、歴史に興味があり、大学進学時は学校の先生になりたいと沖縄大学への進学を決めました。2年次に琉球家譜を研究したことから、先祖の家譜に興味を持ち、調べていき、いろいろ解明できる楽しさと、先祖のゆかりの地である泊村の研究があまりなされていないことに疑問を持ち、継続して研究したいと思うようになりました。
【修論でわかった泊村について】
泊村が王国の内部から対外関係を支える存在であり、いわば「裏方」で王国を支える存在であったことがわかりました。また、おそらく那覇にはない役割を泊村が果たしていたこと、例えば薩摩藩侵攻のときの泊の役割(奄美大島からの連絡係を担当や北谷城での泊の士(サムレー)が前線で戦っていたことなど)、また沖縄では初めてといえるお医者さんの存在など、いままでの泊村研究では解明できていなかった事がわかってきました。
【今後の研究について】
出世に不利だった泊の士について那覇とどう違ったのかなど、泊村と那覇に焦点をあてつつ、港の役割についてなども研究を続けていきたいです。論文を継続的に執筆することが目標です。
【どのような社会人を目指しますか?】
4月からは沖縄県教育委員会職員(専門員(史料編集担当))として沖縄県公文書館で働きます。採用試験では、一般教養に加えて漢文(『歴代宝案』:琉球王国の外交文書)の問題も出たのですが、これまでの勉強してきたことが活かすことができたかと思います。
社会人スキルを身に着け、この人と働きたいなと思われる社会人になりたいです。
【沖縄大学の学生へメッセージをお願いします】
私も高校時代にはこのような学びを深めることなど将来のビジョンは描けていなかったです。高校生や大学生は悩みも多いですが目の前のことに一生懸命取り組み続ければ道は開けます。
歴史探訪が好きで、泊村の散策等を行っている新田さん。(天久宮にて)
泊村について
およそ北は天久村、東は安里村?牧志村、南は那覇町に接して、港町として栄え、琉球大国を支えていた。奄美大島から琉球への年貢の収貯する公倉(現在の聖現寺の敷地)や琉球八社のひとつ天久宮などは現在も遠くから訪問?参拝客が訪れる名所となっている。